【才色兼備】7 MEN 侍・本髙克樹くんのプロフィールまとめ!方程式では導き出せない“ぽんさん”の魅力とは?

7 MEN 侍のメンバーとして、多方面での活躍を光らせている本髙克樹くん。彼のこれまでの歩み、そこでのエピソードや考え方に触れると、見ただけでは分からない奥深い魅力に気づかされるはずです。今回は、7 MEN 侍・本髙克樹くんのプロフィールや経歴、性格や魅力について、様々なエピソードを交えながらご紹介していきます。

【才色兼備】7 MEN 侍・本髙克樹くんのプロフィールまとめ!方程式では導き出せない“ぽんさん”の魅力とは?

7 MEN 侍・本髙克樹くんのプロフィールや魅力を徹底解剖!


(画像:フリーイラストAC)

夢や目標を追いかけ、日々奮闘を見せるジュニアたち。ステージはもちろん、様々なフィールドで輝く姿に心惹かれ、その一生懸命な姿に元気やパワーをもらっているというファンの方も多いと思います。

7 MEN 侍のメンバーとして活躍する本髙克樹くんもまた、たくさんの魅力に溢れたメンバーの一人。「インテリ枠」としての活躍もめざましい今日ですが、その裏には様々な「ドラマ」や私たちの想像を超える「努力」も隠されています。

今回は、そんな7 MEN 侍・本髙克樹くんのプロフィールを徹底解剖!入所理由や経歴のほか、これまでの歩みを振り返りながら、本髙くんの魅力をたっぷりとご紹介していきます。


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7 MEN 侍・本髙克樹くんの基本プロフィール


(画像:フリー素材「写真AC」

まずは、7 MEN 侍・本髙克樹くんの基本プロフィールをご紹介していきます。

本髙克樹プロフィール

名前 本髙克樹(もとだかかつき)
誕生日(生年月日) 1998年12月6日
出身地 東京都
血液型 O型
身長 171.5cm
兄弟 弟(4歳下)
尊敬する先輩 中島健人(Sexy Zone)
憧れの先輩 阿部亮平(Snow Man)
入所日/入所時の年齢 2011年8月27日/13歳
メンバーカラー
出身は東京都ですが、親の仕事の都合で引っ越しが多かったそうで、幼稚園の年中から小学2年生までは北海道に住んでいたこともあります。

多彩なあだ名・ニックネーム

あだ名やニックネームを含め、本髙くんの呼び方がなかなか定まらない……!なんてお話しされているファンの方も多かったでしょうか。本髙くんや克樹くんはもちろん、ぽんさんやダカさん、かっくんなどなど、色んな呼び方があるんですよね。

いつしかメディア等でも“ぽんさん”なんて呼ばれるようになりましたが、この“ぽん(さん)”は、2013年にはすでにファンの間でちらほらと使われていた記憶があります。それがいつしか広く浸透して、本人にも“ぽん”=自身を指すものと認識されていったんですよね。

入所当時からシンメを組んでいたメンバー(現在は退所)と本髙くんが“むらぽん”というシンメ・コンビ名で親しまれ、そこから本髙くんと他メンバーの組み合わせには“ぽん”という言葉が使われるようになっていった感じでしょうか。

後ほどご紹介する中村嶺亜くんとの“ぽんれあ”のほか、菅田琳寧くんとの“りねぽん”、矢花黎くんとの“やぱぽん”、佐々木大光くんとの“ぽんたいこ”、今野大輝くんとの“ぽんこんぴ”といった7 MEN 侍のコンビにも“ぽん”が使われています。また、憧れの先輩である阿部亮平くんとの“あべぽん”をはじめ、グループを飛び出した様々な組み合わせにも“ぽん”が使われているんですよね。

「かっくん」というあだ名・ニックネームは、当初から本人により発信されていた記憶がありますが、ジャニーズJr.として歩みを進めていくなかで、色んな出会いがあるなかで、“ぽん”をはじめとした多彩なあだ名・ニックネームが誕生していきました。

“ぽん(さん)”という名前の由来

ところで、なぜ“ぽん(さん)”なのでしょうか。これは、本高くんの「本(=ほん)」が「ぽん」に変化したところから来ていると考えられています。では、なぜ“ぽん(さん)”という呼び方が本髙くんに対して使われるようになったのでしょうか。

先ほどご紹介した通り、2013年頃にはすでに“ぽん(さん)”という呼び方が存在していて、気づいたら使う人が多くなっていたという印象でもありました。筆者もはっきりとした起源は分かりませんが、本髙くんがセクバ(=Sexy ZoneのバックにつくJr.)として認識されるようになり、「ジャニーズJr.ランド(ジュニラン/JJL)」に出演するようになってから使われることが多くなっていった記憶があります。

ジュニランを通じて、本髙くんがどんな子なのか知ったという方は多いはず。ISLAND TVやYouTubeがなかった当時は、こうしたバラエティー=踊っているだけでは分からない魅力に気づける貴重な機会だったなぁと感じています。ジュニランの様々な企画を通じて、本髙くんの持つ雰囲気だったり、佇まいだったり、性格だったり……そうしたものを集めていくなかで、“ぽん”という響きがしっくりくるような感覚ってあったような気がするんですよね。

具体的には、ピュアな感じだったり、柔らかい部分だったり、かわいらしい部分だったり、親しみやすい部分だったり……当時はふにゃんとした喋り方が際立っていた印象もあって、そうしたものを含むような形で“ぽん(さん)”が浸透していったように筆者は映ってます。「お腹ポンポンだよ~」の“ぽん”とはまた違った意味を纏っていたような気がするんですよね。

セクバ周辺のJr.を見ていても、ファン発信の言葉ってかなりたくさんあったなぁと記憶しています。よく考えれば、こうして当たり前のように使っている「セクバ」もファンから発信されたものですよね。

いつしか使われなくなったものなどもありますが、“ぽん(さん)”のように、そこから長く使われるようになったものも色々あるなぁという印象です。かつては、本髙くんの顔文字っぽいものを見かけたこともありました。

尊敬する先輩/憧れの先輩

尊敬する先輩にSexy Zone中島健人くんを挙げ、強火健人担としても知られる本髙くん。ケンティーが大好きすぎて、「黒崎くんの言いなりになんてならない」の感想を1,200字のレポートとして提出したこともありました。2021年5月6日に出演した「中山秀征のクイズイマジネーター」のなかでも、「健人くんが好きなんですよぉ~」なんて発言がありましたね。

思えば、本髙くんがケンティーの衣装替えを手伝っていたときに、間近でウインクされて動揺しまくったなんてエピソードもありました。

また、Snow Manの阿部亮平くんに憧れており、進路について相談に乗ってもらうこともあったそう。ジャニーズのなかで一番気が合う先輩だと思っていると本髙くんが話していたこともありました。2人はジャニーズクイズ部にも所属しています。

ジャニーズとして初の大学院進学が話題となった阿部くん。大学院修了(上智大学大学院理工学研究科修了)という経歴がSnow Manとしての活躍や力になっている……阿部くんの姿を見てそう感じていたという本髙くんは、自身も大学院への進学を視野に入れて活動してきました。

早稲田大学高等学院から早稲田大学創造理工学部経営システム工学科を経て、2021年4月には阿部くんに続くジャニーズ2人目の大学院進学(早稲田大学大学院創造理工学研究科修士課程)を果たしました。大学院では「オペレーションズ・リサーチ(OR)」について学び、アイドルの活動においても生かされることがあると話していましたね。

そして、2023年3月に早稲田大学大学院を卒業。同年に発売されたプロフィールカードには、アピールポイント「早稲田大学大学院修了」と書かれていることも話題となりました。

大学院生はもっと忙しいというイメージがあったそうですが、研究室も同じで大学生の時と同じような生活リズムで過ごせているなんて話していたこともありましたね。ただ、後輩が新しくできたことで、先生のアシスタント・ティーチャーという立場を担わなければならないとも話していました。

忙しいことはその通りだったと思いますが、本当に生き生きとした様子が話す様子からも伝わってきて、すごく充実しているんだなぁということを強く感じられたような気がします。

入所のきっかけ

入所前に見に行った嵐のコンサートが、ジャニーズ入所のきっかけの一つとなった本髙くん。小学4年生の時に初めて横浜アリーナへ参戦、それ以降も何度かコンサートへ足を運ぶ機会があったそうで、「ジャニーズ」に対する憧れが日に日に大きくなっていきます。自分もステージで歌ってみたいという気持ちが芽生え、その夢を実現すべく履歴書を送ったんですよね。

一方で、小学2年生からサッカーに打ち込むスポーツ少年でもありました。リフティング大会で優勝したというエピソードも持っていて、ISLAND TVでも華麗なリフティングを披露していたことがありましたね。7万回(おそらく7千回でしょうか……?)以上できるなんて話していたこともありました。

「サッカー」と「ジャニーズ」のどちらを選ぶか迷っていたという本髙くんですが、そんな彼を「ジャニーズ」に傾かせたのは、叔母さんのある言葉でした。

叔母さんはKinKi Kids堂本光一くんのファンで、本髙くん自身も入所前から『Endless SHOCK』のDVDを見る機会がたくさんあったそう。そんな日々について「ジャニーズの英才教育を受けていた」と本人が表現していたこともありました。

ジャニーズに応募するか迷っていたときに、叔母さんから「ジャニーズに受かるのは何万分の一という確率」であること、「東大に合格するよりもすごいんだ」ということを教えてもらった本髙くん。ジャニーズに受かることがすごいと知り、ジャニーズに対する思いが加速していったと言います。

オーディション・初ステージの思い出

2011年8月27日に、本髙くんはジャニーズとしての道を歩みだします。これまでは具体的な入所の日付までは分からず、なおかつ6月説と8月説があったりもしました。ただ、2020年になって8月27日であることが分かったんですよね。

入所した時期に、ちょうど「SUMMARY 2011」が行われていたこともあって、オーディション曲も『SUMMARY』だったことで知られています。本髙くんは、思うように振り付けを覚えることができず、悔しかったと当時の思い出を振り返っているんですよね。2カウントくらいしか踊れていなかった記憶があるようで、オーディションに合格できたことが不思議で仕方なかったと本人は感じているようです。

ただ、その一方で「合格」を感じさせるような出来事もありました。踊っている時に、自分の名札を見て手元の紙に何かを書いているおじいちゃんがいたと話していた本髙くん。鏡の前に立っていたため「邪魔だな」と思ってしまったそうですが、それがジャニーさんだったということを後に知ります。

後に「僕が世界のジャニーです」なんて挨拶も話題になっていたジャニーさんですが、本髙くんがオーディションに参加した当時は、ジャニーさんがどんな人か分からない状況。オーディション会場で一番偉そうにしていた人がマネージャーさんだったこともあり、当時の本髙くんには「ただのおじいちゃん」に映っていたようです。

その後、「SUMMARY 2011」でHey! Say! JUMPのバックについたのが本髙くんにとっての初ステージとなりました。同年12月の紅白歌合戦では、NYCのバックとして出演も果たしています。この時に披露された『ユメタマゴ』は、本髙くんにとっても思い出深い楽曲の一つとなっているようです。

本髙くんにとって初めてのテレビ出演が「紅白歌合戦」であることに、家族や家族の周りでは当時話題になったそう。本人も「最初のステージで紅白に出ていいのかな」という思いがあったようです。紅白歌合戦で見た景色や雰囲気は印象深かったそうで、本髙くんは「忘れられない」とも振り返っていました。

7 MEN 侍・本髙克樹くんの歩み:多方面での魅力開花


(画像:フリー素材「写真AC」

活躍の場を広げた2012年

2012年に入ると、本髙くんをテレビで見る機会が多くなっていったような印象でもあります。2月3日には、A.B.C-ZがMステに出演し『Za ABC ~5stars~』のパフォーマンスを披露。この時はかなり多くのJr.が出演していたことも話題となりましたが、ラストの部分ではっしーに肩を組んでもらっている本髙くんの姿(ピンクの衣装)をばっちり見ることができます。

13歳の時に初めてマイクを持って歌番組に出たと話していた本髙くん。緊張していたせいか、イントロ部分で全て1カウントズレた状態で踊っていたそう。それを本人も自覚していて、「早く家に帰りたい」「サッカーの道に行こう」「僕はジャニーズにいられない」なんて思いが込み上げてきたシーンでもあったようです。

初めてマイクを持った歌番組、初めてマイクを持った日はいつだろう……と気になったので調べてみました。筆者の手元に映像がないものもあるので何とも言えませんが、2012年5月2日に放送された「ザ少年俱楽部」で『ボクの背中には羽根がある』~『Misty』~『希望~Yell~』のメドレーが披露された日が濃厚かなぁと思っています。

本髙くんはマイクを持たずにヘッドセットマイクをつけているので、もしかしたら違うステージのことを指しているのかもしれません。ちなみに同ステージでは『希望~Yell~』で本髙くんがマイクをつけてパフォーマンスを披露していて、「本髙克樹」という名前のテロップも出ています。

このあたりから「少年倶楽部」などでも本髙くんを見ることが多くなり、主にセクバ(=Sexy Zoneのバックで踊るJr.)としてステージに立つことが多くなっていった感じでしょうか。セクバは先ほどご紹介したようにファンの間で使われていた呼称で、初期の「きしっくす」に代表されるような固定メンバー=セクバという認識も強かった印象です。

他のメンバーのプロフィール記事でもご紹介してきましたが、セクバは以下のように規模の拡大をしていったイメージでもあります。(あくまで筆者の個人的な見解です)

★セクバのメンバー変遷(~2012年まで)

2011年秋・冬~(セクゾデビュー時) 中村嶺亜(現7 MEN 侍)、岸優太・神宮寺勇太(元King & Prince→現Number_i/TOBE所属)ほか
2012年春~ +岩橋玄樹(元King & Prince、現在は退所しソロ活動)
2012年夏~ +谷村龍一(現在は退所)ほか
2012年秋~ +松倉海斗・松田元太(現Travis Japan)、本髙克樹(現7 MEN 侍)ほか
2012年冬~ +宮近海斗(Travis Japanから出張)ほか

本髙くん=セクバというイメージが強く根付いたのは、やはり2012年9月24日に放送された「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」あたりでしょうか。

この時は、雨の降りしきるステージで、セクゾが『Sexy Summerに雪が降る』を披露。これまで少クラなどでセクゾのバックにつくことはあった本髙くんですが、地上波の音楽番組でセクゾのバックにつくのはこれが初めてでした。この日は、タッキー&翼のバックとして『夢物語』『Venus』のステージにも立っています。

地上波の音楽番組だけを見ると、ここから「セクバに固定」というわけではないのかもしれませんが、このステージを境に、セクバのメンバーと同じステージに立つことがより多くなっていった印象でもあります。

2012年10月号の「POTATO」で雑誌初登場、2012年11月には「つみきタワートーク」企画でジュニランに初出演も果たし、ここからバラエティー番組における本髙くんの魅力が大きく開花していったと言えるかもしれません。個人的にはジュニランという番組で一番魅力を開花させたJr.と言っても過言ではないくらい、この番組を通じて本髙くんの色んな一面に気づかされたような気がしています。

「つみきタワートーク」に出演したメンバーは、その企画内容からファンの間で「ジェンガライン」と呼ばれるようにもなっていきます。「つみきタワートーク」以降、様々な企画・コーナーに出演した本髙くん。ジュニランを通して、踊っている時には見えてこなかった魅力にたくさん気づかされる瞬間がたくさんありました。

「パンダ」がきっかけで画伯と呼ばれるように

ジャニーズには「画伯」と呼ばれる人がたくさんいますが、本髙くんもジュニランの企画でパンダを描いて以来、「画伯」と呼ばれるようになっていったんですよね。

本髙画伯は、縦じまのパンダやミョウガを持つパンダ、疲れた犬やウサギのような子羊、ピッカピカの茂木淳一さん(ジュニランの司会)など……番組内だけでも本当に数多くの名作(迷作?)を生み出してきたことで知られています。自由でどこか独創的な発想は、幼少期に見たピカソの絵が影響しているのだとか。

見れば見るほどクセになってしまう愛らしさもまた、本髙画伯ならではかもしれません。特に「伝説」とも呼ばれる縦じまのパンダは、2020年のカレンダーや動画などにも登場し、話題となりましたね。

画力が上がっている気がする……なんて感じる瞬間もある一方、昔から変わらない部分があって、懐かしいような、ホッとしているような感覚があるかもしれません。

純粋さや素直さに溢れたリアクション

ジュニランを通じて見えてきた本髙くんの魅力。色々あると思うんですが、やはりリアクションや発言、行動やしぐさから溢れ出す純粋さや素直さはご紹介したい部分かもしれません。こうした部分は、今も昔も変わらないんですよね。

縦じまパンダの絵を描いた時には、「パンダって耳あるよね?」「ミッキーマウス耳あるじゃん!」と発言し、「ミッキーはパンダじゃない!」とツッコまれるシーンがありました。別の企画で、粘土伝言ゲームに参加した際には、「カバにしっぽあるの?」「嘘だぁ!ないよぉ~!」と真顔で発言していたこともありましたね。

虫が苦手だという本髙くんの「虫嫌い克服企画」では、松倉海斗くんがセミの標本を顔に近づけてきたことに驚いて涙目になってしまったり、牧場ロケでヤギに引きずられ、ずるずると坂を滑り落ちたり、初々しいエアキスをして照れ笑いを浮かべたり……ジュニランを通じて見えてきた魅力や新たな一面が本当にたくさんありました。

当時から真面目で勤勉なイメージが強かった本髙くんですが、どこか天然で、ふわふわしていて、ぽわぽわしていて、ふにゃんとしていて……当時から「ぽんさん」と呼ばれていた理由だったり、そもそも「ぽんさん」という呼び方が登場した理由に思わず納得してしまうような、ゆるっとした雰囲気に溢れていました。

7 MEN 侍としての今は「いじられ不憫」なんて言われることもある本髙くんですが、そうした愛され要素が当時から溢れ出ていたような印象です。

7 MEN 侍・本髙克樹くんの歩み:受験休みを経験


(画像:フリー素材「写真AC」

受験と向き合った2013年~2014年

2013年の5月には少クラで『さくらガール』が披露され、そのステージに立ったメンバー、特に本髙くんや琳寧くんなどの括りがファンの間で「さくらライン」と呼ばれるようになっていきます。先ほどご紹介した「ジェンガライン」に「さくらライン」と重複するメンバーもいたことから、両方の呼称が共存していたり、メンバーによって使い分けがなされていたり、呼称が移り変わっていったりといった印象でもありました。

このラインは、大きく見るとセクバに包括されているようなイメージと考えると分かりやすいかもしれません。活躍の場を広げた2012年、その勢いをさらに加速すべく2013年の本髙くんのさらなる飛躍を楽しみにしていたファンの方も多かったはず。しかし、この年の夏頃にピタッと姿が見えなくなってしまったんですよね。

デビューと医者 両方の夢

中学1年生でジャニーズ事務所へ入所した本髙くん。Jr.になったからには「デビューしたい」という目標を持ちつつも、「医者になること」も夢と語っていたことがありました。小学2年生からサッカーを続けてきて、ケガをするたびにお世話になっていた病院の先生との関わりのなかで、そうした夢を抱くようになったそう。

かつて好きな言葉として挙げていた「全部全力」という言葉が示すように、デビューと医者、どちらの夢も叶えるために、全てに全力を捧げて日々を過ごしていきます。

7か月半の受験休み

ジャニーズの活動と両立させ、週6で塾に通い、1日8時間は勉強していたという本髙くん。思えば、車酔いと格闘しながらロケバスで因数分解のプリントに取り組んでいたなんてエピソードもありました。

2013年は、ちょうど中学3年生で受験生の時期。受験勉強に専念するため、夏頃からおよそ7カ月半にわたってJr.の活動をお休みするという選択をしています。

少クラでは、2013年8月14日放送の『With you』のステージを最後に姿が見えなくなりますが、その後しばらくは「ジュニラン」で本髙くんの活躍を見ることができていました。しかし、そのジュニランも9月末に放送が最終回を迎えてしまいます。

受験休みなのか、辞めてしまったのか……当時は特に、そうしたことがすぐには分からなかったような気がします。7カ月半という長期の休みに、ファンの方も「もしかしたら……」という思いを抱く瞬間があったかもしれません。

「ここに戻る」という強い気持ち

またこの場所に戻るぞ!という強い決意を持って、受験休みに入ったという本髙くん。この期間は大好きな音楽もマンガも絶って、朝の9時から夜の11時までの14時間、塾で勉強していたと言います。

少クラをテレビで見て、自分に活を入れることもあったと語っていました。お母さんからは、面接=雑誌のインタビューだと思ってリラックスして……といった内容のアドバイスを受けたそうで、ジャニーズとしての経験も武器に、持ち前の向上心と絶えず努力する姿勢で早稲田大学高等学院合格をつかみ取ります。

「嬉しさ」と同時に芽生えた「不安」

高校合格を決め、ひたすら嬉しかったと語っていた本髙くん。ただ、それと同時にJr.のみんなについていけるかという不安も出てきたと言います。

受験休み前を振り返ってみると、少クラで名前が出るようになって、いい位置で踊ることも多くなりました。ジュニランで大活躍し、たくさんの魅力を開花させました。雑誌にもたくさん載りました。

そうした一つ一つの出来事を見つめていくと、これからさらなる活躍が期待されるタイミングでの受験休みだったとも言えるかもしれません。仲間・ライバルであるJr.たちが経験を積んでいくなかで、「置いていかれちゃうんじゃないか」という気持ちがきっとあったはず。

「ファイト!YOUたち~ジャニーズJr. NO.1決定戦」(2014年5月17日放送)という番組で、本髙くんが流した涙からもそうした思いを感じ取ることができるかもしれません。

高校へ入学してからも、高校の出席日数を満たしながら、かなりハードなスケジュールで学業と両立させて駆け抜けてきた本髙くん。高校生活に「充実感」や「楽しさ」を感じる一方で、やはり他のJr.に後れをとってしまうことだったり、お仕事がなくなってしまうかもしれないといった不安だったり……そうしたものを抱えながら、活動していたことが分かります。

最も辛かった中学時代

ジャニーズとしてのこれまでの歩みを振り帰っていくなかで、中学時代が最も辛かったと本髙くんは振り返っていました。受験休み復活後の高校時代も本当に大変だったと推察されますが、中学時代はそれ以上に大変だったそう。

部活の朝練をする→学校の授業を受ける→レッスンや舞台などに行く→塾へ行く→学校と塾の宿題に取り組む→朝練をする……といった中学時代の生活について、本人も「クレイジー」なんて表現していました。

中学時代、母親からは「アイドルとしてのお仕事」「学校や塾での勉強」「部活動」など、どれもちゃんとやりなさいといった言葉をかけられていたそう。当時は色々と思うところがあったのかもしれませんが、今になって振り返った時には、そうした声をかけてくれた母親の厳しさに感謝の気持ちを口にしているんですよね。

私たちの想像を超える大変な生活をしていたんだと後に分かることって多いような気がします。ただ、当時の本髙くんを見ていると、そうした大変さを微塵も感じさせず、いつも笑顔で楽しそうにしている姿がすごく印象に残っています。

次ページからの記事後半では、復帰後のエピソードや中村嶺亜くんに対するガチ恋疑惑、7 MEN 侍になるまでの歩みや本髙くんの魅力などをたっぷりとご紹介していきます!

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